幼少期

1995年8月31日、2人兄弟の次男として栃木県佐野市に産まれた。
父の仕事の都合により、3歳ごろまでは群馬県沼田市に住んでいた。
当時の僕は、周囲と比較して明らかに神経質な気質であった。
「無機質な顔」がとにかく怖かった。トランプのJQKの顔や、日本画の掛け軸、トーテムポールなど。

今では考えられないが、人見知りもする方だった。
というより、小学校入学のときに「人見知りだから」と親に言われたのが刻まれているだけで、本当は人見知りではなかったのかもしれない。
まあ、少なくとも、知らないものに対する警戒心は強かった。

3歳ごろ、東京目黒区に引っ越した。このとき、元の家に帰りたくて大変泣いたらしい。
親父は転勤が多かったが、このときに「転勤は子どもを不幸せにする」と判断して転職をした、と後から聞いた。
自分の人生を書く上で、父親が与えてくれたものが多すぎて書ききれないと思う。世界一偉大な父親だと思う。

目黒の幼稚園では、入園して間もないときは母親がいないことが不安で仕方なかった。
でも内気ながら友達はできたようで、楽しかったような気がする。
東京に引っ越してからだと思うが、セガサターンとドリームキャストが家に来た。
セガサターンは、従兄弟が「電脳戦機バーチャロン」をプレイしているのを見て、兄が欲しがった(たぶん)のだと記憶している。
ドリキャスもバーチャロンのために兄が買ってもらったので、バーチャロンというゲームは
自分のかなり根本に根差しているように感じる。
目黒では父の職場の宿舎に住んでいた。
両親はよく、狭いとか水が不味いとか空気が汚いとか言っていたので、東京は嫌なところなのかなあとか思った。
兄の同級生が家に遊びにきた(誕生日会かなにか)ことがあったが、
兄がオラタンを同級生に勧めても何それ?という反応をされていた。
家族から聞く東京の話は大概マイナスなことだった。 兄は既に小学生だったが、「貧乏人」とか同級生に言われていたらしく(そもそもその小学校は経営者の子供とか、特別裕福な家庭が多かった)、その心情は察するに余りある。
僕の両親は子どもの前でケンカをしない。のだが、東京に住んでいたとき1回だけ言い争いをしているのを見てしまった。あれは今でも覚えているので、子どもにとって夫婦喧嘩は強い心的ストレスを与えるのだと分かる。
同じ宿舎に住んでいた「ひなちゃん」という女の子とはよく遊んだ。ポケモンの映画を観に行ったり、ジェンガやったり、気が合ったのかいつも遊んでいた。今となっては顔も思い出せないが。

意外なことだろうが、絵を描くことは苦手だった。
正確に言えば、自分のアイデアで何かを作り出すことが恥ずかしかった
なので、工作の時間はあまり好きではなかった。
かといって、運動も得意ではなく、読書も嫌い。人見知りもするため、
必然的にビデオゲーム好きの子どもに育っていったのである。

さて、東京での幼少期はどうだったかといえば、それなりに楽しかったような気がする。
当時の写真を見ても笑っているものが多い。
しかし、目黒での暮らしは、家族的には良いものではなかった。
母に後から聞いたのは、ママ友付き合いが大変(価値観が違いすぎる)というものだった。
東京生まれ東京育ちの家庭と、地方から東京に越してきた家庭とでは話が合わないことが多いのかもしれない。

目黒に引っ越してから1年ほどで栃木に引っ越すのが決まり、同じ組の子みんなからプレゼントをもらった。
5歳ごろ、出身の佐野市に引っ越すことになる。それから18歳までを佐野で過ごした。
0~16歳の間は、とにかく子どもだった。17歳になろうとするとき=2012年の夏に、僕の世界は一度壊れ、本当の人生が幕を開けるのだけど。

佐野

栃木県佐野市に引っ越してからの話。
引っ越しの段ボールの山に囲まれた部屋を覚えている。キンカ堂やジャスコ、セガワールドにはよく連れて行ってもらった。
新しい幼稚園に転園したとき、東京から越してきたということで色々聞かれた記憶がある。パラパラ踊ってよって言われたのも覚えてる。
とりあえず友達はいた。一番仲良かったのは「りくとくん」で、彼の家にはたびたび行っていた。魔法陣グルグル(2作目の方)アニメを見た記憶がある。
レゴブロックで遊んだり、ゲームボーイカラーで色々遊んだ。
母は当時車持ってなかったので、送り迎えは子供乗せ荷台付きの自転車だった。

幼稚園のお遊戯会が本当に嫌で(人前に出たくなかったのだ)仕方なかった。
とにかく全てにおいて目立つことが恥ずかしかった。
幼稚園で初めてやったドッジボールは、痛くて怖いからという理由で非常に苦手だった。
鬼ごっこも、足が遅くて苦手だった。スポーツはこの頃から苦手意識がついた。


急に絵の話になるけど、壱さんと真斗さんの絵には非常に影響を受けました。
幼稚園は東京のときに入園したが、引っ越しとともに栃木の幼稚園に転園した。
東京のときの幼稚園では、母の日にお母さんの似顔絵を描こう!という授業(授業って呼ぶ?)があった。
人に似顔絵を見せることが恥ずかしかった僕は、ブラットスを描いた。

中学1年生

2008年に市立中学校に入学し、部活は卓球部を選んだ。
練習は真面目にやっていたが、同級生の陰口ばかり言っていた。

ある程度試合で勝てる部員と、そうでない部員。
1年生はその2極に分かれていた。
最初の頃、僕は勝てる方の部員だった。
だから、同じくらいの実力の同級生と固まって、いっしょに陰口を言った。
それで、何か自分が強くなった気でいた。

段々、試合に勝てなくなった。
周りが強くなり始めたのだ。僕は成長が止まっていた。

ある日の練習、試合の審判をしているとき、同級生に
少し強めの口調で「点数バグってんぞ」と言われた。
卓球は11点先取。
練習では、審判役は両の指を使って点数を数える。
それが間違っていたらしい。

そして、たったこれだけのことで、僕の中に疑念が生まれた。
「もしかして●●に嫌われてるのでは?」
一気に不安になった。なにしろ、散々人の陰口を言ってきた。
自分が言われるのではという恐れでいっぱいになった。
浅い付き合いしかしていなかった。
気付いたときには遅かった。

本当は陰口も何も言われていなかったかもしれない。
けど、中学1年生の僕は、一度よぎった疑念を払うことが出来なかった。
中1のときは、誰かを攻撃することでしか自分を守れなかった。
運動は出来ないし、気は弱いし、面白い話も出来ない、そこで身を守るためにやったことが他人の攻撃だった。

剣道部に転がりこんだのは、この3ヶ月後のこと。

中学2年生

とりあえず、中1で
「人に言った陰口は必ずどこかで自分の首を絞める」
ということを実体験として得た。
あと、「他人の悪口で繋がった仲は、もろい」ということも。

中2に進級したときにはもう部活に行きたくなくて、大会でも半ば投げやりになっていて顧問に怒られた。
卓球自体は嫌ではないけど部内の環境がもう嫌だった。

その頃、教室に置いてあった小説を読んだ。
武士道シックスティーンという剣道の話。
担任は剣道部の顧問だったので、その小説が置いてあった。

> 同じクラスに剣道部の男子がいて、家が近いのでときどき下校中に話した。
卓球は楽しい、剣道は楽しい、ってお互いに部活が楽しいって話をずっとしていた。
それもあり、中2の5月には「剣道部に転部しようかな」と思い始めていた。
こいつの剣道の話がもっと聞きたいと思った。

卓球部だった頃の自分は、勝てば喜ぶし、負けたら悔しがる、けど何故負けたのか?なぜ勝てたのか?の分析はしない。嫌な負け方だったら癇癪を起こして相手の文句を仲間内で言う(こんなん仲間じゃないね)子どもだった。
相手への敬意も無く。

中学生になったくらいのときって、人より上に立ちたがるというか、他人に一目置かれたいという欲求が肥大化していて、自分の場合はそれが強かったのだろうか。でも暴力は嫌だったし力も弱いからグレるという選択肢は無かった。


中学2年 2009年12月 剣道部
静岡まで遠征に行ったときがあった。
僕は剣道初めてまだ半年
全然勝てなかったのに、試合の後に
「亀ちゃんがんばった!」
と、褒めてもらった。剣道部の顧問の先生に
これが今も忘れられない。

あのころ、僕には誇れるものも、人生の目標も夢も、なんにもなかった。

高校生

「家から近い」という理由で、市内の県立高校を受験し、合格した。
栃木県立佐野東高等学校。
学力でいえば隣の市にある県立高の方が合っていたが、電車通学が嫌だったので受けなかった。
また、大学進学をどうするか等もまるで考えていなかった。

高校2年生 - パニック障害のはじまり

生きてきて、人生が変わった瞬間だと思う。
2012年6月ごろ、高校2年生になったばかりのとき、無意識だったが、学校生活でストレスを抱えていた。
部活での行き詰まり。試合に勝てない。
進路についての不安。やりたい仕事はないのに、進学するための勉強はやらねばならない。
クラス。僕の高校は、学祭の無い年度は合唱コンクールをやるという慣習があり、6月はそれの練習が毎朝あった 。中学の合唱コンクールとはわけが違うので、クラスはまるで団結せず。けど僕はというと、変な責任感に駆られてたっけ。頑張らなきゃ、みたいな。
そもそも、不満を外に吐き出さない子どもだったので、人を頼らず自分で片づけてしまう傾向があった。

夜、自分の部屋で漫画を読んでいた。
普通に漫画を読んでいただけだったが、急に息が出来なくなった。
体感にして30秒くらいだったか?
息をしようとしても出来なかった。
凄まじい焦りを感じた。生まれて初めての感覚だった。

すぐにそれは収まったのだが、体験したことのない恐怖を感じ、リビングへ。
母に、「なんか、息が止まっちゃったんだけど」
と話した。
そこから先はよく覚えていないが、普通に息ができているようになったので翌日は登校した。

しかし、学校に着いてから何か身体がおかしい。
昨日と同じような息苦しさに見舞われた。
立っていられず、席に座って必死に息をしようとする。
同級生から、「大丈夫?」と声をかけられるが、「なんか苦しくて・・・」としか返せない。
朝から保健室に行き、肺の病気ではないか問診を受ける。

だが、症状的にそういった類のものではなさそうだった。
ストレスによる何か、ということしか分からなかった。
その日は早退をすることに。
「過呼吸というやつ?」
原因と病名が分からずもやもやしながらも、次の日からは1日授業を受けられた。
よく分からない息苦しさは残っていたが、日が経つにつれて少しずつ良くなっていった。
そのときは知らなかったが、これがパニック障害というものだった。

「一生治らないらしいよ」と同級生に言われて、目の前真っ暗になったのを忘れない。 そんな中経験した大学受験も忘れない。

大学生

大学4年生のときはコンビニで1年半バイトした。
夜勤以外大丈夫っす。って面接で話したので、夜勤以外すべての時間帯で働いた。
僕は大学4年を2回やってる(留年)ので、最低でも半年分の学費は稼がねばと思い
初の長期バイトをしたのだった
(年賀状の仕分けとか、英検の受付とかの短期バイトは経験あったけど、長期のは初。)

バイト先、ミニストップ佐野大橋店

兄弟

記憶にある限り、兄弟喧嘩は3歳ごろからあった。1回だけ兄を負かしたことがあったような気がする。

社会人

昔、剣道場に置きっぱなしにした竹刀袋と竹刀が処分されているのか、この8年間ずっと気がかりだった。しょうもないことだが、気がかりだった ちゃんと処分されていた。よかった。

絵の上達のためにモチベーションを保つ方法

僕が思う、絵が上手くなるために必要なことは
「楽しむこと」
これです。
絵を描くことを楽しめるようになることが、最高で最適で、最良の方法です。(と、僕は思ってます。)
なぜならば
「楽しめる→続けられる→上達できる」
からです。逆をいえば、
「楽しめないことは続けられないから、上達しない」
ともいえます。
楽しむってことが出来ないと、しんどいです。
僕は14~19歳の時期に、剣道をしていました。
中学校の担任の先生が剣道部の顧問で、知り合いにも剣道部員が多かったので2年生から途中入部しました。
中学校の剣道部は本当に"楽しかった"です。
顧問の先生が好きだったし、試合するとみんな応援してくれて、部内の雰囲気も良かった。
授業が終わると、剣道場までみんなで走っていって、早く着替えて、練習。終わったらみんなでくだらない話をして、土日は練習試合で色々なところに行って、他の中学の剣道部とも仲良く。
しんどかったのは、高校の剣道部でした。
大きく違ったのは、指導者がいなかったこと。顧問の先生に剣道経験はなく指導者はいませんでした(これは進学校だったので当たり前かも)。
となると当たり前ながら、上級生が練習内容を考えたり取りまとめていました。
高校の剣道部は、中学よりも「勝ち」を重視している空気がありました。僕がそう感じただけかもしれない。けど、中学のときのように無条件に褒めてくれるような先生はいないし、和気あいあいとした感じではありませんでした。
僕は剣道を中学2年生から始めました。そして、明らかに弱い方の部類です。
勝てない僕にとって「勝ち」を重視しているこの剣道部は、とても苦しく感じる環境でした。最初は期待されていても、勝てないことが続くと当然周りからの関心も薄くなっていく。
高校1年生の途中から、胸を張って「剣道が楽しい」とは言えなくなったのです。剣道が強い=優れている 
という思考にあったので、勝てない自分を認められなかった。
こうなるともうぐちゃぐちゃです。勝てないから楽しめない、楽しめないから強くなれない。どんどん剣道に対する自信を無くしていきました。
高校で活躍できず、剣道を諦めきれなかった僕は大学進学後に剣道部へ入ります。しかし、高校時代と同様に楽しむという前提が欠けてしまっていた。勝ちたい気持ちはあるのにカラ回るばかり。
それもそうです、自分の核と呼べるようなものが無いのですから。
ずっと迷路を歩いているような1年でした。このままでは剣道で活躍することは出来ないだろうなと思い、2年生に上がると同時に退部しました。
--- 続く---